創造力が乏しくなったとは、ずいぶん前から
いわれ続けている・・・が本当に危機的状況に
近づいているとも感じるようになってきた
他人のことを、相手のことを思い図ることが
できない人種が増えている
相手の気持ちになれない~というのは日本文化など
皆目チンプンカンプンを意味することになる
情けなや!
日本に日本人として生まれて日本人として育ち
日本人の両親を持ち、ところが日本文化が
皆目感じ取れないとはエイリアンなのか?
僕たちの時代と今の時代の決定的な違いは・・・
偏差値教育だと思う
自分の意志よりも、気持ちよりも、感情よりも
数値化された社会的評価がすべてといっていいほどに
育った人々とは人間としての基本が違うのだろうか?
この偏差値教育と今日のいじめ問題とは
なにか相関関係があるのではないのだろうか?
いじめに意思があるのだろうか?
無性にやりきれない止め処もないフラストレーション
だけが存在するのではなかろうか?
だから、いつ、自分が狩られるのかわからない!
誰もがまわりに信頼できる人などいない
だからこそ周りの色に染まり、常に多数派と
同調していることこそが唯一の自己防衛という
環境で育った人物に個性など芽生えるわけもなく
他人との違いが自覚できない人物に他人の心や
気持ちを推し量れるわけでもない
今日のSNSでは噛み合わない会話のオンパレードだ
だが、それを気にしたり指摘することこそタブーの
暗黙の重要なルールのように目を背けている
なんのための会話なのか~ 不毛という言葉さえ死語のように響く
特に最近は、会話からセンテンス(文章)が消えている
気になる、あるいは話題性のある単語の印象のみで
相互に言葉が投げつけられる
この状況、映画のゾンビの場面しか想像できないの
だけど、今じゃ、完璧な少数派になり・・・多数派は
蝶々が飛び交う楽園のように写っている
本来、会話というのは単語の組み合わせで
ひとつの世界を作り上げるものだけど
話し手、聞き手の目に見えない頭の中に世界が
作られる・・・双方の頭の中に同様の世界が
築かれるときは、話し手、聞き手、あるいは
双方に創造力が潤沢なときで
その創造力が欠如していると世界が描き出されない
最近、とみに思うのが・・・
何を言っても過去の事例しか頭に描けない人が
急増していることだ
偏差値教育の成果なのか
相場感覚に優れた人々が多い
ところが世の中には相場が立たない例外事項など
どこにでも存在し、時に、例外事案から
世の中が一変し人々の大きな進歩に繋がることなど
歴史を見れば枚挙に暇がない
ところが相場以外のものは
相場が立たないものは違法である、詐欺だ、悪徳だ
と白雉紛いに決めつける感覚が蔓延しているのは
狂ってきた証拠だと思うが狂った社会に正論など
通用しない
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